仏式のお葬式では、僧侶を招いて、読経をし、そして遺族や親族は焼香をして故人を供養します。こうした一連の儀式には、一体どのような意味が込められているのでしょうか。
この記事では、仏教におけるお葬式の意味について考えたいと思います。
「引導」 故人をあちらの世界に送り出す
仏教における引導作法は、亡くなった方がこの世界を去る際に、魂が冥界に安心して旅立つように、その方を導く儀式です。 慈悲や優しさとともに故人を導くことを目的としています。
引導作法は、通常、葬儀の中で行われます。作法は宗派によって異なります。松明に火を灯し、それを棺に向けて着火する様子を模すもの。あるいは、「喝」と大きな声を出して、故人を激励するものなどです。
引導にはもうひとつ大きな目的があります。それは、残された家族に対しても、故人との死別をしっかりと受けとめ、そして乗り越えるきっかけとするためです。
故人がこの世界を離れがたく思っているのと同じように、遺族にとっても故人の死をなかなか受け入れられるものではありません。火を灯し、大声を発し、故人をあちらの世界に導く儀式を通じて、故人はもうこの世界の人ではないのだと、残された人たちに認識させる意味をも持っているのです。
私たちは、大切な方を失ったとしても、明日からの日々を生きていかなければなりません。引導作法は、故人の魂だけでなく、遺された家族たちをもまた激励しているのです。遺された人々が心を整理して、悲しみや喪失感を乗り越えるためにも、引導は重要な役割を果たしています。
「授戒」 死後を仏弟子として生きるために
授戒とは、仏門に入る者に対して仏弟子として生きるための戒(守るべき決まりごと)を授けることです。
引導作法によってあちらの世界に旅立った故人は、やがて仏弟子として、修行を積んで、時間をかけて仏になっていくと考えられています。だからこそ、葬儀では引導と授戒はセットで行われる大切な儀式なのです。
また、戒を授けられることによって、故人は仏門に入ることを認められたこととなりますが、この時に仏弟子としての戒名を授けられます。これが「戒名」です。
授戒は葬儀の時に行われる儀式、そして戒名は死者に名付けられた名前だと思い込んでいる人が多いのですが、本来はそうではなく、あくまで修行者の証なのです。
出家をした人には、誰もが仏弟子としての新たな名前を授かります。代表的な人に、瀬戸内寂聴さんがいます。もともとは瀬戸内晴美という名前で小説家として活動されていましたが、天台宗僧侶として出家をしたときに授かった名前が「寂聴」という戒名なのです。
また、授戒は僧侶でなくても受けられます。お寺で行われる授戒会と呼ばれる法要に参加する、あるいは直接住職に相談するなどして、授戒をして、生前に戒名を授かることもできます。
授戒会では、戒師と呼ばれる、戒を授けることのできる僧侶から、戒を授かり、戒名を頂きます。生前に戒を授かっている人の場合、葬儀の中で授戒の儀式は行われません。
浄土真宗では、阿弥陀如来に感謝する
これまで見てきたように、仏教の葬儀では引導と授戒がとても大切な儀式です。
しかし、日本最大級の勢力を誇る浄土真宗では、他の宗派のように引導や授戒は行われず、阿弥陀如来に感謝することを目的としています。故人との別れの儀式が、どうして仏さまへの感謝の場となるのでしょうか。詳しく解説いたします。
浄土真宗の葬儀では、故人をあちらの世界に送り出す儀式である引導がありません。なぜなら、浄土真宗では、阿弥陀如来のことを信じ、「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えるものは、一人残らず阿弥陀如来が極楽浄土に往生して下さると考えるからです。こちらから故人をあの世に送り出さなくても、阿弥陀如来の絶対的な力がきちんと仏の世界に導いて下さるのです。
同じような理由から、浄土真宗では授戒も行いません。なぜなら、戒を授けて仏弟子になり、時間をかけて修行を積んで仏を目指すという考えが浄土真宗にはないからです。浄土真宗では、出家して仏弟子にならなくても、阿弥陀如来を信じるものは一人残らず救われると説いているのです。
さらに、浄土真宗には「供養」という考え方がありません。ご逝去と同時に、阿弥陀如来の力で極楽浄土に往生しているのです。ですから、浄土真宗の葬儀は、遺族や親族らが集まり、故人との死別を悼みつつ、僧侶を通じて阿弥陀如来の教えに触れる機会として捉えられます。
同じ場所に集まる全員で、故人が極楽浄土に往生したことを確認しあい、阿弥陀如来への感謝を表明する場なのです。
もちろん、宗派の教えの通り、遺された人たちがそれをすんなり受け入れられるとは限りません。しかし、こうした死後の物語があることで、私たちはこの世が無常であること、己に限界があることに気づけるのかもしれません。
死別の悲しみを受け入れるための教えや儀式
ここまでの話を整理すると、仏教におけるお葬式には、次の2つの目的が考えられます。
・多くの宗派の場合、故人を死者の世界に送り出し(引導)、仏弟子にする(授戒)。そして死後は仏弟子として修行を積み、仏になることを目指す故人を激励する。
・浄土真宗の場合、阿弥陀如来が故人を極楽往生させてくれたことに気づくための儀式であり、同時にそのことに対して感謝を表明するためのものである。
さて、仏教が説くこうした死後観、あるいは死後の物語は何のためにあるのでしょうか。
「故人は死後も仏弟子となって生きている」
「阿弥陀如来さまが極楽浄土に導いてくれる」
しかし実際に死者が仏弟子として修行をしているところを見た人や、極楽浄土に行った人がいるわけではありません。いわばこれらはあくまでも「物語」に過ぎません。ではどうしてこうした物語が必要なのでしょうか。
それは、人間という生き物が、仲間の死後の行方というものを考えずにはいられないからだと思われます。
「私たちはどこから生まれてきたのだろう」
「私たちは死んだらどこに行くのだろうか」
このような素朴な疑問をみなさんも持ったことありませんか?
大切な仲間(家族や友人)を失ったとき、あるいは自身がもうすぐ息を引き取りそうだとなった時、この疑問、この問題はとても巨大なものとして私たちに迫ってきます。ある時は恐怖として、ある時は絶望として、私たちに迫ってくる死の問題は、人間一人の力では対処しきれません。
だからこそ、あらゆる文化、あらゆる宗教が死後の物語というものを生み出したのだと考えられるのです。
たとえそれが作り話だとしても、その作り話をみんなが信じることでそれはより現実に近づきます。そして、故人はいまごろどこで何をしているのだろうかと、悲しみに暮れている遺族にとっても、
「故人は今でも仏さまの世界で生き続け、修行に励んでいるんだ」
「阿弥陀如来が作られた極楽浄土で、穏やかに過ごしているんだ」
と想いを馳せることで、悲しみが軽減されるものだと思われます。
仏教に限らず、世界中にさまざまな宗教があり、そして世界中の文化で葬儀が行われているのは、死別の悲しみを受け入れるために、死後の物語を創作し、それを体感するための儀式が必要だからなのでしょう。
まとめ
いかがでしたか?
葬儀は故人の死を受け入れるために行われています。私たち人間が、大切な人を失ったあともなお幸せに生きるための重要な儀式なのです。
引導、授戒、極楽往生。こうした伝統的な儀式や作法には、苦しみ溢れるこの世界をよりよく生きていくための先人たちの智慧が込められています。