国葬の成り立ちや歴史を分かりやすく解説します
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2022年9月27日。東京・日本武道館において、安倍晋三元首相の国葬が執り行われました。吉田茂元首相に次いで戦後2人目となる総理大臣経験者の国葬には、国内外から4300人もの人が参列し、安倍元首相の早すぎる死を悼みました。
国葬であることの是非が問われた安倍元首相の葬儀。このニュースで知るまで、そもそも国葬について詳しく知らないという人が大半だったのではないでしょうか。この記事では、改めて、国葬がどういう葬儀なのか、その成り立ちや歴史もふまえてご紹介して参ります。
もくじ
国葬とは、国が主催し、全額負担する葬儀
国葬を一言で説明するなら、「国家にとって特別な功労をした人が亡くなった際に、国が主催者となって国費で実施される葬儀」のことです。
日本では、古代より天皇が崩御(ほうぎょ:亡くなるの意味)した際に、天皇や皇族のための葬送の儀式である「大喪」が行われてきました。明治以降、皇室の葬儀はこの大喪が国葬として引き継がれます。
加えて、皇室以外の人でも、功臣(国家に多大な功労があった人)が亡くなった際にも国葬が行われます。天皇や皇室関係の葬儀は宮内庁が取り仕切りますが、功臣の葬儀の場合は政府主導で実施されるのが慣例です。
ちなみに、戦後の国葬は4回行われています。大正天皇の皇后である貞明皇后(1951年)、昭和天皇(1989年)、内閣総理大臣経験者として吉田茂元首相(1967年)、そして、このたびの安倍元首相です。
国葬・国民葬・合同葬 その違いは?
内閣総理大臣経験者の葬儀といえば、中曽根康弘元首相の葬儀(2020年)が記憶に新しいところでした。コロナ禍における大規模葬儀の実施や、約1億円の国庫負担が物議を醸したのを覚えている方も多いのではないでしょうか。
中曽根元首相の葬儀は、正式には「内閣・自由民主党合同葬儀」です。その規模から国葬と思っていた人も少なくないと言われていますが、合同葬と国葬とは異なります。
国庫負担によって行われる葬儀は、国葬、国民葬、合同葬があります。その違いを下の表にまとめました。
国葬の成り立ちと歴史
日本で最もはじめに行われた国葬は、公家出身の政治家・岩倉具視であることが通説ですが、それに先立って行われた、長州藩士の広沢真臣(さねおみ)と、維新の三傑と名高い大久保利通の葬儀が下地になっていると言われています。
歴史学者・宮間純一さんによる『国葬の成立-明治国家と「功臣」の死』(勉誠出版)を参考に、国葬の成り立ちをご紹介いたします。
暗殺を悼む葬儀(広沢真臣)
幕末は木戸孝允の同僚として倒幕運動に参加し、維新後は参議として新政府中枢にいた広沢真臣(さねおみ)は、明治4(1871)年1月9日に、自邸にて暗殺されます。
広沢真臣の死は政府首脳に激震を走らせます。広沢真臣のことを厚く信頼していた明治天皇からは、「犯人を必ず捕まえよ」との異例の詔勅が発せられるほどです。政府や警察は総力をあげて犯人を捜すものの容疑者は見つかっておらず、暗殺の真相は現在に至るまで不明のままです。
犯人の捜索とあわせて広沢の葬儀が執り行われます。広沢真臣の葬儀の特徴は、あくまでも私葬、つまり広沢家が主催者となって、親族や故郷の山口藩の関係者中心の葬儀である上で、政府の意思が大きく関わっていたという点です。
「維新十傑」と数えられるほどの人物の急逝に対し、明治新政府が手厚く広沢真臣を弔いたいと考えるのは、ある種当然でした。あまりに衝撃的な訃報を受けたわずか6日後に国葬を決定した岸田政権にも、同じような心理が働いたのかもしれません。
広沢家の葬儀にどのように国がかかわったのでしょうか。暗殺という理由から、前例のないほどの多額の祭粢料(さいしりょう:いわゆる香典)を天皇陛下から下賜されていますし、葬儀を神葬祭で行うことや、埋葬地を山口藩と関係の深い青松寺(港区愛宕)に指定したのも政府です。葬列には天皇陛下の護衛を主とする御親兵が派遣され、前後を固めるなど、家族主催の葬儀とは思えないほどの規模に膨らみました。
宮間氏は広沢真臣の葬列のことを「死の劇場化」と呼んでいます。つまり、見られることを前提とした葬列にすることで、「天皇陛下は広沢真臣の死を悲しんでいる」=「天皇は暗殺犯を否定している」というメッセージとして発することを意味する効果があるのだと解説します。
余談ですが、広沢真臣の葬儀は、日を改めて地元山口藩でも営まれたそうです。ここにも、山口県民葬を実施した安倍元首相との類似性が見られます見られます。
暗殺というショッキングな事件に対して、故人を手厚く弔いたいと考える政府首脳。そこには、故人を悼む想いがあるのはもちろんのこと、要人の死によって引き起される社会の動揺を最小限に食い止めたいという政治的な狙いがあることは言うまでもありません。
国葬の原型(大久保利通)
大久保利通の暗殺は「紀尾井坂の変」とも呼ばれます。馬車で皇居に向かっている道中、島田一郎をはじめとする不平士族6人に殺害されます。
初代内務卿を務めていた大久保利通は、実質的な政府の最高実力者でした。国のトップの訃報はただちに国内外に知らされ、明治天皇は「龍眼に御涙を浮かへさせ」てひどく悲しんだと言われています。
大久保利通の葬儀は、死亡からわずか3日後という短期間に、盛大に執り行われます。総経費約1万5千円。明治時代の1円は現代の約2万円と言われていますので、約3億円もの費用がかけられたこととなります。また、三年町の大久保邸から青山墓地までの約3200メートルの間に約1500名の警護、葬列の前後を囲む儀仗兵が約2000名と、多大なる費用と人員を割かれました。
これまでの政府要人の葬儀とは比較にならないほどの規模で執り行われた、まさに実質的な国葬ですが、当時はまだ国葬という前例や内規がなかったため、手探りの中あわただしく葬儀を進めていったことがうかがい知れます。しかも準備期間はたった3日しかありません。
神葬祭のための斎官(葬儀を取り仕切る神職)、伶人(雅楽を奏する人)、葬儀場の準備。葬列のための儀仗兵、馬車26輌、椅子250脚、警護の手配。埋葬地は青山墓地に決まり、すぐに同所を買い取り、墓穴堀り、石櫃(遺体を納めるために作られた石の囲い)の手配。弁当は1970人分、酒は西洋酒が15箱、赤飯折1000個などの記録が残っています。また、国葬で着るべき服装に関する決まりがなかったため、大久保利通の後継者として内務卿に就任した伊藤博文が、国葬の先進国である西洋諸国に慌てて問い合わせるほどです。
大久保利通の葬儀は、建前としては大久保家が主催となって行われたために国葬とは分類されませんが、政府が葬儀の方針に大きく関与した点、さらには「天皇も哀悼の意を表している」=「犯人を許さない」というメッセージを明確に発している点など、広沢真臣の時と同様に、国の威信を内外に見せつけるという政治的意図が多分にあったことが分かります。
日本初の国葬(岩倉具視)
日本における最初の国葬は、岩倉具視の葬儀だと言われています。その理由は、大久保利通の葬儀の時にはなかった次の5つの条件が揃っているからだと宮間氏は指摘します。
・太政大臣の命令として、葬儀の執行組織の設置、費用の支出が決められた
・岩倉具視の死を『官報』(政府発行の機関紙)が伝えた
・諸外国に対しても明確に「国葬」の2字を用いて通知文が出された
・前近代に天皇陛下の崩御の際などに適用されていた廃朝(天皇陛下が執務を停止すること)や死刑の停止などが命じられた
岩倉具視の葬列は、日本史上最大規模だと言われており、一万人を超える参列者と、それをとりまく群衆で道路に人があふれかえっていたと言われています。天皇とともに、国民が功臣(国家に多大な貢献をした人)の死を悲しんでいる姿が共有されました。
「国葬令」の発令
1926(大正15)年、大正天皇崩御の際に公布されたのが『国葬令』です。これまで、明治政府は大久保利通に始まり数々の要人の葬儀を政府主導で行なってきました。それらは先例や慣習、そのつど作られた内規をもとに執行されてきましたが、これらをひとつの法令に整理したのが国葬令です。条文はとてもシンプルで、1条から3条は国葬の対象者について、4・5条は国葬の方針について定められています。大正天皇以降、東郷平八郎、西園寺公望、山本五十六、載仁親王などの政府や軍関係者の国葬が行われてきましたが、太平洋戦争敗戦後の1947(昭和22)年に失効となります。
戦後の国葬 吉田茂
吉田茂は戦後日本の礎を築いた政治家で、皇族以外では戦後唯一国葬が執り行われた人です。
1967年10月20日、自らの自宅で息を引き取った吉田茂の国葬は、先に身内だけで葬儀を済ませたのち、10月31日に日本武道館で国葬として執り行われました。
葬儀委員長は当時の内閣総理大臣で、吉田茂と師弟関係にあった佐藤栄作。国内外から約5700人が参列しただけでなく、国葬の様子は、テレビの特別番組によって報じられ、国民全体が見届けました。吉田茂の国葬は、佐藤栄作の強い要望で実施されたものです。当時は戦前に作られた国葬令も失効されており、それに代わる法律もなく、明確な法的根拠はないため、閣議決定で剛腕を押し通した形と言えるでしょう。政教分離の原則から野党から国葬への反対が湧き上がっていましたが、宗教色を薄める儀式にすることでなんとか理解を得られ、国葬の実施に踏み切れたと言われています。
ここまで駆け足で国葬の成り立ちと歴史を振り返りました。安倍元首相の国葬の政治的是非をここで問うことはできませんが、この記事が、国葬とは何なのかを考えるきっかけとなってもらえれば幸いです。